いじめ 不登校 体罰



体罰問題について1

体罰問題について

      和歌山県教育研究所事務局長   岩尾 靖弘


一 なぜ今、体罰論議なのか

毎日新聞が一九八四年七月十六日に発表した文部省の校内暴力実態調査の分析結果のことをとりあげ、一九八三年度の校内暴力は前年度より減少し、「校内暴力の発生状況が峠を越えた」という同省の分析に対していくつかの問題を投げかけている。
 校内暴力の発生件数が多かった首都圏や近畿圏は減っているが、地方では逆に増えてきている。発生率でみると増えた県と減った県は相半ばしている。総数の減少をもって「峠を越した」というわけにはいかない。 
 「校内暴力が減少した原因についても考えてみる必要がある」として、学校を中心とした対策が一定の効果を上げたことには間違いはないが、父母や地域住民との協力があまり進んでいない点、特に警察との協力がより密接になっていることを「日常化してはいけない」と警告を発している。とくに学校では「服装をはじめ、生徒のしつけを厳しくする傾向が強まっており、生徒の行動に目を光らせ、少しでも反抗的な態度は体罰で押さえこむ。そのため、若い体力のある教師が歓迎されるという空気が学校現場にみられる」という状況に対して、「力」で生徒の反抗を押さえつける方法は決して望ましいとはいえないし、子ども本位の教育という空気を現場にぜひとも再生してはしい、という鋭い注文を投げかけている。
 校内暴力が減る一方で「登校拒否や無気力症などの学校不適応は確実に増えている」という事実について校内暴力も不適応の現われとすれば、その総体は変わっていない。学校の権威主義的な態度、生徒の人格を無視するような管理主義的な傾向は、ぜひ、あらためてもらいたと指摘している。
 非行には、力で対処するのでなく、生徒の間に人間らしい結びつきを回復することこそ、非行克服の基本的な筋道であることは、苦しいとりくみをくぐり抜けてきた学校や先生たちの共通の教訓である。非行克服のとりくみについては一定の前進を勝ちとっているにもかかわらず、「体罰」問題についてのとらえかたの弱さが多くのこっていることに注目する必要がある。

二、発達の筋道にてらしたとりくみ

①我々の教育対象は人間である。そしてさまざまな未熟な要素をかかえた子どもであるという極めて当たり前のことを改めて深く考えてみる必要があるのではないか。
 私たちの前にある子どもの姿のなかに、とても子どもと思えない「荒れた」姿であらわれてくることが多い。どうしようもない子ども、まともなことが通用しないような頑固な部分にぶつかると、どうしてよいかわからなくなる。
 そこに現在の「体罰問題」の深刻さが事実として存在する。
 しかし、一時的な力による指導には限界があることもはっきりしている。一時的な鎮静剤にはなりえても、そのことで子どもの内面を内からゆさぶることになってはいないことを、当の教師が一番よく知っているのである。どんな荒れた子どもであっても、まったくどうしようもない子であっても、人間としての値打ちを認め、発達の崩れを十分考慮にいれ、発達の筋道に照らしたとりくみをすすめる以外に解決の糸口が見いだせないのではないかと思う。
 いくらむつかしくても、人間を殴る(暴力を加える)という行為についての誤りと「殴る」という暴力のなかでえられる一時的な効果(…とみえる)に対する錯覚を早く断ち切るところから、とりくみを出発させたい。
② 今の子どもは、どうしようもない子ども、人間らしさを失ったものとして私たちに見える。その「あらわれ」に目を奪われて、そのように思ってしまったのでは子どもを一面でしかとらえたことにならない。
 子どもたちの多くは常に苛立ち、逆にシラケているように見える。けれども、それは「ちゃんとしたい」と思っているのだが、そのようにできないから、自分に苛立っているのである。そして、まともな人間として育ちたいのだが、どうにもならない自分にシラケているのである。
 まともな願いが非常に薄いものであっても人間として生きているかぎり、どんな子であってもそれは失ってしまっていない。そうした人間としての確信を教師自身持てるかどうかが問われているのではなかろうか。
 同時に、子どもの非行の裏には必ずといってよいほど生きていくうえでの〝まよい““悩み〟〝苛立ち″が重くのしかかってているものである。教師は、こうした視点を見失わず「体罰」を今一度問いなおしてみる必要があると思う。

三、「わかる力」の芽をつみとる体罰

体罰を考えるうえで二つ目の問題は、「体罰」は教育の筋道から外れているということである。教育というものは、教師生徒との間の信頼関係によって成立するものであり、言うことを聞かないから
といって体罰を加えるということは、指導を放棄したものである。言うことを聞かない子、まともなことを茶化したり嘲笑したりという子どもが増加しているだけにどうしたらよいか、さしあたってその場をどう切り抜けるか、ほとほと因ってしまう状況が多くなってきていることは事実である。その場その場を切り抜ける方法として、体罰や暴力を背景にした教師の威嚇は、一定の効果があることは否定できない。しかしその効果の内容はけっして子どもの発達への意欲を育て子どもの自覚に役立つものでないこともはっきりしている。
 たとえば、口で言っても聞きわけのない子に、殴ってでも言うことを聞かせるわからせ方はありうる。しかし、その時のわかり方は程度の低いわかり方であり、子どもの成長の糧になりえるものではない。逆に暴力肯定を無意識のうちに会得してしまうという発達上の〝マイナス〟になる。

四、教育の神髄は子どもの自発性
 「怒られる(または、殴られる)からしない」という考えは「怒られなかったらする」ことであり、自分を律する基準が人間として正しいかどうか(または良いかどうか)というふうにとらえられないで「怒られるかどうか」を考える子どもに育てることになる。親に多く殴られて育った子は友達が悪いことをすると「先生あんな悪い子殴ってやれ」というようになる。「体罰」というものは明らかに暴力である。
 本質は暴力でありながら教育活動のなかで、指導という形であらわれ行使され、時として一時的に子どもの行動を停止させ思考を中断させる力を持つために、暴力そのものの性格が隠されてとらえられている。あるいは、暴力としての性格が指導ということで昇華されたという錯覚が、非常に根強く私たち教師の間にまかり通っている。教育はあくまでも子どもの自発性を育てることが基本であり、体罰=暴力というものは、いかなる形であれ教育とは異質なものであるところから体罰論議をすすめていく必要があると思う。

五、法的にも許されない体罰

 体罰問題をとらえる三つ目の点は、体罰は法律上の禁止行為であるということである。学校教育法第十一条で「校長および教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒および児童に懲戒を加えることができる。ただし体罰を加えることはできない」。教育上必要な懲戒は加えることができるが「身体に対する侵害、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当する」と懲戒の程度について法務省の通達でその行きすぎを戒めている。このように体罰については学校教育法第十一条によってはっきりされている。憲法・教育基本法による教育の中心は、平和及び人間の尊厳性と基本的人権の尊重であり、すべての子どもの全面発達をめざした民主的人格形成にあたることはだれもが認めることであり、体罰とは相容れないものである。長年の習慣的な馴れによって実際面における指導の困難に目を奪われて、安易に妥協してきているといえる。

六、非行克服のとりくみにも逆効果

 現在、さまざまな発達の歪みがもたらす子どもの非行が教育者だけに止まらず、父母・国民すべての問題として早急に克服を迫られている中で、教育現場の中で長年残されてきた体罰という悪習を思いきって断ち切る決意を固めることが何よりも必要なことである。
 多くの非行克服の教訓は、「荒れた生徒に対する体罰は必要な教育効果をあたえない」ということであり、非行克服の成果そのものを壊す役割すら持つということを明確にしている。体罰問題における具体的状況の困難さに迷わされないで、教育や法の立場の基本に立ち返りながら、真に人間が人間として「わかっていく」筋道を明らかにしていくことこそが大切かと思う。

七、「体罰にもー定の効果がある」ということについて

◇子どもの考え方を歪める体罰
 やむなく振う体罰は子どもの態度に何らかの変化をもたらすことは事実である。しかし、教師にとって大切なのは、その子ども変化の内容がどういうものであり、子どもの自発性を発展させることになるのかどうか見極めをつけることである。子どものとらえ方の中に、もし「殴られるからしない」というわかり方であれば、それは本当にわかったのではなく、まちがった認識を育てることになるし、さらに殴られるおそれのないところではやるかもしれないということであり、子どもの考え方を歪めることにしかならない。
◇教師の落ち入りやすい〝落し穴″
 思わず殴ってしまったことがきっかけになって、子どもが反省し態度がよくなるという場合、教師が子どもに誠意をもってぶちあたり思い余って殴ってしまう。その時、その気迫の中に教師の誠意を感じとり、子どもが自省のきっかけにした。この場合、教師の側では得てして体罰を含めて有効な指導として評価しがちであるが、そういうとらえ方には教師として落ち入りやすいきわめて危険な落とし穴がある。子どもが自省のきっかけとして強く受け取ったのは、どうしても子どもを良くしたいという教師の熱意を受け取ったのであって、体罰そのものではない。教師の熱意を受けとめて自分をかえるきっかけにし得ても、殴られたそのことについては、しこりを残すという場合もありえるということを見逃してはならない。体罰というものは、ある条件のもとで一定の効果があっても、そのことで体罰を正当づけることはできないということをはっきりさせるべきである。もし、いささかでも子どもが体罰を肯定して受け入れたのであればそういう子どもに誤って育てたことによる何らかの効果は、いかなるものであっても子どもの内面の成長に役立つも′のでなく、むしろ子どもを人間として歪めることにしかならないと思う。

(つづく)
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by gikaisaika | 2015-09-20 17:47
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